中学生から高校生の頃、数学はあまり好きではなかった。成績は可もなく不可もなく、ごくごく平凡。しかし、数学は好きではなかったが、数学が面白いと思った瞬間が自分にもあった。正確にいうと、数学ではなく数学者なのだが・・・
二人の天才
タイトルに書いた”二人の天才”とはエヴァリスト・ガロアとニールス・アーベル。ともに19世紀初頭に彗星のように現れ、あっという間に夭逝してしまった不世出の超天才。(ガロアは決闘!、アーベルは結核で)
この二人を始めて知ったのは、高校生の時。ちょいエロ漫画やギャグ漫画中心の週刊ヤングジャンプで連載されていた漫画、”栄光なき天才たち”(作:伊藤智義(一部)、画:森田信吾)でこの二人が取り上げられていたからだ。
この作品は、タイトルのとおり、不遇の天才達に光を当てるような画期的な作品だったのだが、この記事を書いているとき、連載されていたのは、週刊モーニングだと思っていた。こちらの方は、対象読者層はもう少し上の世代で、連載している作品も確か硬派な感じの作品が多かったと思っていたから、モーニングの方が相応しいと勝手に思い込んでいたのだ。
話は逸れるが、週刊モーニングでの一番のお気に入りは”鉄腕ガール”(最終巻のトメと克己の最後は・・・、号泣もので・・・)、課長すいません。
・エヴァリスト・ガロア フランス :1811-1832(享年20!)
・ニールス・アーベル ノルウェー:1802-1829(享年26!)
二人の業績を詳細に説明しても理解不能なのだが、一応説明すると・・・
エヴァリスト・ガロア
数学的業績
ガロアの業績は様々な書籍で紹介されているが概ね以下のとおりであろう。(Wikiより引用有)
数学者として10代のうちにガロア理論の構成要素である体論や群論の先見的な研究を行った。ガロアはガロア理論を用い、ニールス・アーベルによる「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理(アーベル-ルフィニの定理)の証明を大幅に簡略化したことで有名。
一般にどんな場合に与えられた方程式が代数的な解の表示を持つかについての特徴付けを与えた。また、数学史上初めてカテゴリー論的操作によって自らの理論の基礎を構築している。
群論は数学でも重要だが、数学以外、例えば物理では相対性理論や量子力学などを厳密に(形式的に)記述するツールとして用いられる。また、計算機科学、特に理論計算機科学においてガロア体、特に位数2のガロア体 F2 は最も多用される数学的ツールのひとつとなっている。
代数学で重要な役割を果たすガロア理論は、現代数学の扉を開くとともに、20世紀、21世紀科学のあらゆる分野に絶大な影響を与えている。しかし、ガロアの業績の真実と重要性、先見性は当時世界最高の研究機関であったパリ科学アカデミーを初め、カール・ガウスやオーギュスタン・コーシー、カール・ヤコビと言った歴史に名を残した同時代の大数学者達にさえ理解されず、生前に評価されることはなかった
さらに、群論の基礎概念とも言える集合論がゲオルク・カントールによって提唱され、ガロア理論へと通じる数学領域が構築されるのでさえ、ガロアによるガロア理論構築の50年も後のことである。
ガロアの遺書となった友人宛の手紙には、後の数学者たちにとって永年の研究対象となる理論に対する着想が「僕にはもう時間がない」 (je n’ai pas le temps) という言葉と共に書き綴られている。例えば代数的には解けない5次以上の方程式の解を与える、楕円モジュラー関数による超越的解の公式の存在を予言し、そのアイデアを記している。なお、この手法はガロアの死後50年の時を経てシャルル・エルミートによって確立される。
決闘
1832年3月16日、政治的な活動で投獄されていたガロアは、仮出所する。さらに、5月25日にシュヴァリエ(ガロアに政治的影響を与えた知人)宛に、手紙を送っているが、その中で、「つまらない色女に引っかかって決闘を申し込まれた」という記述が存在する。
そして、5月30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行われた。その結果ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。しかし容態が回復することなく翌、5月31日午前10時頃、腹膜炎などにより死去。享年20歳。
決闘の直前、シュヴァリエ宛に論文の添削やシュヴァリエへの数学的な発想を断片的に書いた手紙を、有名な言葉「僕にはもう時間がない」と走り書きしつつ大急ぎでしたためているが、書いてある内容があまりに高度であったのと彼のレベルについていける数学者が存在しなかった為、彼の論文は長年放置された。
ニールス・アーベル
数学的業績
アーベルの業績も様々な書籍で紹介されている。大体以下のとおりであろう。(Wikiより引用有)
1818年に、数学教師ホルンボエ(英語版)に出会ってから、数学に興味を抱くようになった。友人達とヨーロッパ中を回って長く遊学し、クレレと知遇を得て、クレレの雑誌に多数の研究論文を掲載した。ヤコビやルジャンドルはアーベルの業績を認めていたが、ガウスはアーベルの研究論文に不快感を示し、コーシーは彼の論文をまともに審査しないまま放置するなど、アーベルには正当な評価が与えられなかった。帰国後はクリスチャニア大学に臨時講師を勤めたが、病気(結核及び併発した肝機能障害)のために26歳で世を去った。
しかし、彼が当時世界最高レベルといわれた数学の総本山パリ科学アカデミーへ提出した「超越関数の中の非常に拡張されたものの一般的な性質に関する論文」こそ、のちに“青銅よりも永続する記念碑”と謳われ、後代の数学者に500年分の仕事を残してくれたとまで言われた不滅の大論文だった。
5次以上の代数方程式には、一般的な解の公式が存在しないことに、初めて正確な証明を与えた。この業績については、パオロ・ルフィニの重要な貢献があるが、その証明は必ずしも完全なものではなかったとされている。
アーベルが中心的に扱ったのは楕円関数とアーベル関数に関する研究である。アーベルはガウスの著作にある、レムニスケートの等分問題から楕円積分の逆関数の研究に取り組み、ガウスの研究(完璧主義のため、生前には公表されなかった)を独自に発見することになった。楕円関数論のアーベルの定理とは、楕円関数の極と零点に関する合同式である。研究上のライバルであったヤコビはアーベルの論文を目にして「私には批評もできない、大論文」と最大限の賛辞をおくったといわれる。ヤコビはアーベルの定理を利用してヤコビの逆問題を示して、その後の研究の目標を新たに与えることになる。
死後の1830年には、フランス学士院数学部門大賞を受賞した。
最後に
この時代にも、稀代の大天才は世界中で存在しているであろう。スポットライトを浴び、光の中で研究活動ができているのであれば幸いだが、あまりに時代を超越してしまっている場合、誰にも理解されない故、不遇の時を過ごしている天才も必ず存在するだろう。
そういえば、2012年に京大の望月新一教授が、数学界の超難問ABC予想の証明をインターネット上で行った。査読は難航したが、2017年12月に一応、証明したとする論文が、国際的な数学の専門誌に掲載される見通しになったが結局どうなったのだろう。
フェルマーの最終定理をアンドリュー・マイルズが解明したときは世界中が大騒ぎになったのに・・・
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