汎用機(COBOL)の現場がイヤになった理由



■.最初は

新卒で入った会社は、独立系のソフトウェア会社で、同期は確か20人ほどいたと思う。自分は、文系だったので、学生時代にパソコンなんて触ったこともなかった。この20人の中ではIT系の知識は全くなく新人同期のカーストの中ではぶっちぎりの最下層のグループだった。周りは理系の大学出身やIT系の専門学校が多く、文系Fラン大学出身者は2~3人いたかどうかだっと思う。
新人研修は全部で3ケ月あり、最初の1ケ月はビジネスマナーとか中心で、ここで困ることはなかった。残りの2ケ月がプログラミング研修だった。プログラミング研修とか言われてもこっちは、パソコンすらまともに扱えなかったので本当に苦労した。(マジで、「フォルダってな~に?」っていうレベルだった。)

研修は優等生と劣等生の2グループに分かれた。もちろん自分は劣等生だったのだが、劣等生グループは最初はフローチャートを手書きで書き、コーデイングしてコンパイルをやってというような70年代位まで主流の開発方法をなぞっていくようなやり方だった。(ちなみに優等生グループはVBでいきなり簡単なツールを作るような内容だった)
この時、一番精神的に堪えたのが、自分と同じくらいの劣等生だった奴が「こりゃ~、無理ゲ~」とばかりにあっさりと退社してしまったことだった。
確かこの時、研修中だったのにも関わらず毎日22時くらいまで残ってやっていたような気がする。(周りの同期は大体定時で帰ったいた。当たり前だが・・・)それでも、周りより全く進まず、自分もこりゃ~、無理ゲーじゃねーか?って本気で思い始め、職探しを本気で考え始めていたのだが、それでもどうにか粘れたのは、これで辞めても何の解決策にもならないということは薄々わかったいたのと、研修の講師役をやっていた先輩社員が、いくらアホでも自分のことを見捨てなかったからだと思う。
そして、どうにか研修を終えた自分がSESとして売り飛ばされた最初の現場が、今は亡き山一情報システムだった。

■.汎用機の現場の特徴

研修中、COBOLでマッチングやコントロールブレイクのプログラムを数本だけ作って現場に放り出されたのだが、幸運なこともあった。それは、同時期に他の会社から送られてきた新人プログラマが結構自分と同じようなパッパラパーマンが多かったことだ。現場に放り出されて、むしろ劣等感はいくらか軽減され、精神的には結構楽になった。
最初に断っておくが、あくまでも自分の経験に基づく私見であって、全ての汎用機の現場がこうだと言っているのではない。
その上で自分の経験した汎用機の現場の特徴は以下のようだった。

・スキルの高低より年功序列重視
・スキルアップより現場のルールを覚える方が重要
・スキルチェンジ不可能な30代がたくさんいる

はっきり言うと、いびつな思想がまかり通るおかしな現場が多かった。

■.今、振り返ってみえると

その後、現場をいくつか渡り歩いたがどれもCOBOL&汎用機の現場だった。スキルチェンジは何となく考えていたが、汎用機以外の知識の上積みがほとんどない為、二の足を踏むような状態が続いていた。
なので今、振り返ると2002年に先輩社員から言われた、「AccessのVBAやってみない?」の一言は凄い大きかった。当時は何とも思っていなかったが、この言葉が、
”COBOL⇒オープン系へスキルチェンジできる最後のチャンス”だったような気がする。実際、このときの環境の変化は凄いもので、30歳超えていたのに、汎用系⇒オープン系の移動というのは天と地がひっくり返るほどだった。
今後、お前のスキルだとCOBOLくらいしか案件ないよって言われても汎用機の現場に戻りたいとは思わない。さらに言えば、あの当時少々キツくても、オープン系の現場が選択肢にあったなら絶対にオープン系を選択するだろう。
そんなことを突然年末に思い出した。

 

 

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